陶材とポーセレンファーネス
陶材作業システムの確立
松風陶歯製造株式会社(現・株式会社松風)の創立(1922年)などにより陶材は術者の間に広く普及していき、さらに1935年には松風社から高熔焼成陶材、ステイン、高熔タイプのポーセレンファーネスが立て続けに発売された。
当時、松風社にて技師長を務めていた荒木紀男氏は1936年頃に「金代用としての陶材作業実習について」というテキストブックを製作し、氏が登壇する講習会で配布するなど、わが国における陶材を用いた技術の普及に努めた。そのような結果、最新の技術を習得しようとする進歩的な歯科医師らによって、陶材は広く臨床応用されていったのである。
しかし当時、ポーセレンファーネスの発熱体には白金線が使用されていたため、白金が戦略物資とされた戦時中は使うことが難しかった。さらに、陶材そのものも入手困難であったので、陶材を用いた技工作業は一時中断せざるをえなかった。 戦後、レジンの登場により一時下火になった陶材であったが、1959年、松風社が低熔焼成陶材、パラジウム箔、カンタル線を用いた低熔タイプのポーセレンファーネスを発表。これをきっかけに国内では再び陶材による補綴物製作が盛んに行われるようになっていった。
1928年~1945年まで使用されていた高熔タイプ
陶材焼付鋳造冠の登場
陶材焼付鋳造冠がわが国に導入されたのは1965年頃であるが、その原理は以外にも古く1887年、陶材ジャケット冠を開発したアメリカのランド(1847~1922)によって、陶材とプラチナの間に親和性のある結合が確認されている。その後も多くの歯科医師らが研究を重ね、1954年頃には焼付に関する技術的な諸問題はほぼ解決し、現在われわれが製作しているものへと続くこととなった。

「釜の前に立つランド、陶材ジャケット冠を開発し、陶材焼付鋳造冠の原理を発見した彼はまさに陶材技術の父と言えるだろう」
釜の前に立つランド
陶材ジャケット冠を開発し、陶材焼付鋳造冠の原理を発見した彼はまさに陶材技術の父と言えるだろう
荒木紀男氏と陶材

荒木紀男氏(1885~1974)は、15歳のときに東京・銀座の高山歯科診療所に書生として入り、代診のかたわら東京歯科医学院(現・東京歯科大学)に夜間通学した。その後、渡米して大手ラボ「Stowe&Eddy Co.」に勤務し陶材部門に配属となり、当時の最先端技術であったcontinuous gum denture(ピンクの陶材を用いて白金の鋳造床上に排列した陶歯を固着させる義歯)を専ら手がけた。この頃、ニューヨークで野口英世氏(1876~1928)と3年間同居していた記録が残っている。そして、1914年頃には独立してAraki Dental Laboratoryを開設したが、1916年人工歯製作の技術者を求めて渡米した松風嘉定氏(1870~1928)と出会い、1918年に帰国。松風工業(現・株式会社松風)に技師長として入社した。
当時、わが国で使用されていた人工歯は外国製品ばかりであり、人口歯の保持形態は舌側に明けた孔によるもであった。そこで荒木氏は、アロイピン陶歯の前身となる、白金ピンを陶材中に焼き入れることで保持の役割を果たす陶歯を考案。その後の試行錯誤を経て、1924年頃にはアイロピン陶歯の生産を軌道に乗せた。また講習会を開いて、陶材の普及に努めるとともに、1937年に発売された『バイオ陶歯』(松風)の開発にも携わった。 その後、1945年に松風を退職し、1954年ごろには日本デンタル株式会社を設立。レジン歯や義歯床用軟質裏装材を製作して販売するなど、歯科材料の開発、普及に身を捧げた。


1908年、ニューヨークで撮影された荒木紀男氏(当時23歳・左)と野口英世氏(当時32歳・右)の写真

[写真提供:荒木紀男氏の孫である荒木進氏(鹿児島県姶良郡/アラキ・デンタルラボラトリー)]

1936年に開催された陶材作業講習会の記念写真。先進的な歯科医師が多く参加した。(写真提供:同じ)

陶材作業実習の際に受講者によって製作された作品

大気焼成タイプのポーセレンファーネス

低炉タイプのポーセレンファーネス
真空焼成タイプのポーセレンファーネス
白金線を使用した中央化学精機製の高熔・中熔・低熔兼用の製品(1962年頃)

アメリカ、JELENKO社製の自動式のもの(1975年頃)
ステージは手動で動かす