世界的に見て,アメリカの歯科雑誌「The Dental cosmos」(Jones & White 社. 1859〜1936年)創刊以前は,体系的な歯科医学は確立しておらず,補綴治療の技術には一定した基準が存在しなかった.そして雑誌創刊から約10年間,歯科医師らは自己流の手法を編み出していったが,金属を用いて歯冠修復する金属冠の技術やブリッジの技術はほとんど進歩がなかったようだ。
しかし,1869年にW.N.Morrison氏が嚼面圧印金属冠(モリソン金冠)を発表し,1876年にはC.M.Richimondo氏がリッチモンド継続歯を考案するなど,その技術は飛躍的に進化した。また,同時期には歯牙への固定に適したセメントも開発されるなど,当時の発展は金属冠やブリッジ制作の初期のシステムに欠かせないものとなり,間もなくこれがアメリカの固定性ブリッジの制作法として,全世界に知られるようになった。
アメリカで確立した金属冠(金冠)の技術は,いつ頃わが国に伝わったのだろうか。一説には片山敦彦(生年不詳〜1908年)が1890年にアメリカから帰国し,架工術や継続歯,金冠を伝えたと言われている。
しかし,1894年にアメリカから帰国した一井正典(1862〜1929年)も架工術,金冠の術式を示し,単独歯の金冠を制作していたという。だが,富安 晋(1860〜1927年)が1894年に記した「口腔に関する雑言」という小冊子の中ですでに金冠が普及し始めていたことがうかがえる記述があることから,金冠は1894年以前に伝わったと考えられる。この冊子は,一井が帰国後の同年12月に出版されてはいるが,金冠は片山によってわが国に紹介されたとするのが妥当ではないかと筆者らは考える。