歯科技工師の始まり

歯科技工士の祖が入歯師であることは、だれしも異論のないところであろう。日本の歯科技工士は明治の初め
に,歯科技工に優れた才能を持った入歯細工師が歯科医の道を選ぶことなく歯科技工術に生涯をかけ,精進し
てきた先達により誕生したものといわれている。具体的には横浜で,アメリカ人歯科医師のエリオット,パー
キンス両博士のもとで松岡萬蔵という人物が歯科技工を専門に行う職人として生涯をかけていた。
 1906年(明治39年)の歯科医師法の制定によって歯科医師免許資格が厳重に制限されたことから,入歯細工師として長年徒事してきた職人たちが歯科医師とは別個の技術師の新設を求める運動を起こし、1912年(明治45年)1月25日,入歯細工師46名が「日本歯科技術師設置の件」を衆議院に捉立請願した。しかしこの請願は,翌1913年(大正2年)に出された「歯科技術を歯科医療との分解において認めることは困難である」との内務省見解によって事実上棄却され,“歯科技術師”は世に出ることなく霧消した。そしてその後,歯科技工の仕事は長い間,歯科医術者の仕事であり続けたのである。
 歯科医師法の制定前は,入歯細工師らが歯科技工に心血を注ぎ,制度後は,登録の好機を失った者が歯科医の

もとで書生または助手として,歯科技工師の道を選び,歯科技工術の研鑽発展に努めてきたのであった。
入歯師の碑 

入歯師の広告


日本で初めて歯科技工を専門とした人物−松岡萬蔵
  JR石川町駅から中華街に向かう一角のイーストレーキ博士ゆかりの地に、博士とその業績を構成に伝えるための躇彰の碑「我国西洋歯科医学発祥の地」が建てられている。この記念碑から横浜山下公園に向かって進むと"日本で初めて歯科技工を専門とした人"松岡萬蔵に関係する「西洋歯科医学勉学の地」の碑がある。記念碑にはエリオット、パーキンス両博士のレリーフが刻まれている。
松岡萬蔵の石碑
  石碑の傍らには、両博士とともに松岡萬蔵の略歴が刻まれており、明治3~14年にかけてエリオット、パーキンス両歯科診療所に歯科技工士として勤務し、その技術優秀にして両先生に信頼されていたが早逝した。我が国における歯科技工士としての嚆矢である」とある。